太陽は兄弟、月は姉妹

「祈り」というと、私は神社や仏様に手を合わすようなイメージを浮かべます。
または「神様!お願い!」スポーツ観戦をする時の絶体絶命のピンチの時に何かにすがるような、
あのスタイルがそれに当てはまるのではないでしょうか。
・・と思うのはあまり宗教観のない日本人ゆえのことでしょうか。

しかしながら、「お願い」と「祈り」はまた少し違いますよね。

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例えば・・「お願い」に関して言えば、自分のことや、誰かに対して懇願するとか長年の願望があるとか、
そのような時に「お願いします!」になるような感じがします。

また以前「一生のお願い!」と、言って小さな仕事を頼まれたことがありました。
「こんなことに一生のお願い使っちゃうのやめてください!」と、仕事はお受けして丁重に一生の部分はお返しいたしましたが(笑)
このように軽いものや重いものも「お願い」にはありそうです。
では・・

・「祈り」とは何だろう?

お願い事ではないと考えると、自分のことばかりではなくて、自分の大切な人に対して、家族や仲間に対して、
世界中の人に対して、何かに対して具体的な対象物がないこともあるような気持ちで
軽やかに想うような、そんな感じがしてきました。

もちろんそれはひとつの考えであり、人によっても感覚は違うだろうし、
1週間後の自分の意見にも変化がありそうですが(笑)今はそのように思いました。

そして「祈り」といえば、
神様への祈りの表現として、手を合わせることはもちろん、歌や音楽、ダンスで音で体で表現することや、
シンボリックなものを祈りの対象とする偶像崇拝などであれば、仏像や仏画に思いを込める、
教会でキリスト像に手を合わせるなど、そういったカタチもありますね。

その祈りの思いは損得ではなく純粋に感謝などから生まれたもので、その祈りをどうにか表現しようとして、
葛藤をしながらも長い年月をかけてそれぞれの祈りの歴史が生まれ、豊かな表現が育まれていったのではないかなと思いました。

このように考えると、少し自分には遠い世界のように感じられるかも知れませんが、身近なところであれば
ご先祖様へお墓参りに行って「ありがとう」を伝えることも、
「いつもありがとう」と遠く遠くに思いをのせて、遠くに住んでいる家族や友人が元気かなと想うことも、
それは「祈り」のように思えます。
「いただきます」、「ごちそうさま」も日々のご飯に自然にできる感謝なのではないでしょうか。

このように日々の感謝に祈ることを決して忘れずに過ごすことは、口にするほど簡単なことではないけれど、
とても単純なことでもあります。

そのようなことを思いながら祈りのカタチを大切にしつつ、
今回は藤城清治さんの絵本「アッシジの聖フランシスコ」をもとに、歴史に触れたり影絵を楽しんだりしてみたいと思います。

前回はこちら
藤城清治【絵本 アッシジの聖フランシスコ】感想①序奏編

・伝記のような絵本

人には誰にでもドラマがあります。楽しかった、嬉しかった、感動した出来事、辛く悲しく激怒した出来事、
それも1つ1つ自分の経験と歴史です。

自分でも忘れていた出来事も失敗も、すっかり美化されていることもあるでしょう。
小さな後悔なら無数にあるかもしれません(笑)
おとといの夕飯、なに食べた?と聞かれても、なかなかすぐに思い出せないほど、自分のことを意外と見ていないものですよね。

けれど、自分も含めてその人が生きて来た証はきっと探せばたくさんあるようにも思います。
今回挙げた「アッシジの聖フランシスコ」も何百年も前の人ではありますが、
このようにたくさんのエピソードが残されているのでこの時代の我々も興味深い話を知ることができるのですね。

それでは文と絵を楽しみながら、いくつかの場面をピックアップして行きたいと思います。

・絵本のタイトルについて

絵本でのそれぞれの見出しタイトルは、実際のその作品のタイトルにもなっています。
タイトル自体も完結に絵と直結するイメージが湧きやすいものとなっているので1つ作品を見るだけでも物語が湧いてくるようです。

ちなみに2016年の影絵展の画集には制作年度が載っているのですが、だいたい2013〜2016年のものがほとんどですね。
その中には2003年のものもあり、長年の月日をかけて制作されたそれぞれの作品がひとつの作品に集約されているので、
よりひとつひとつが粒立っているように感じます。

・「聖フランシスコ」について

簡単に聖フランシスコさんについてお話しておきます。
といっても詳しくいってしまえばこの絵本に書かれているので本を読みながら知ってほしいとは思うのですが、
軽く知っているとより親近感が湧いて親しみやすくなりますからね。

聖フランシスコは12世紀頃の人です。
イタリアのアッシジで生まれているので「アッシジの聖フランシスコ」と呼ばれています。
彼の生家はとても裕福な家庭で、なに不自由なく暮らしていたのですが、
ある時重い熱病にかかり、転機を迎える事になります。

それは神の声を聞いたということです。

そのことをきっかけに考え方や行動が変わり、裕福な不自由のない生活から一変、すべてを捨てて清貧な暮らしを始めます。

「たとえ貧しくても、清く正しく生きていきましょう」(20頁)

絵本ではここまでで数ページあるのですが、その説明とともに、アッシジの街並みが描かれています。
全くゆかりがなかった土地なのでイメージがなかったのですが、教会も描かれており、これからのお話の導入感が漂います。

そしてこのページこそが、前回の①序奏編でも少し触れたのですが、
「横80cmのパノラマのページ」となっております!

(2016年 藤城清治影絵展 図録より 今回は図録から撮影)

私は閉じたり広げたりしていたので少し折り目がついてしまったので、開閉は丁寧にしたいところです(笑)
ちなみにパノラマページの裏は、藤城清治さんが現地で描かれたスケッチも載っていますのでぜひご覧ください!!

その後、サン・ダミアノという壊れかけの教会を立て直すシーンもあるのですが、
サン・ダミアノの十字架のキリストが描かれている絵はとても落ち着いて、教会の奥行き、
こわれかけた教会の中に教会特有の神々しさが描かれています。岩の感じとかも色合いがとてもきれいです。

・父との別れ

・裕福な暮らしを捨てたことで、家族、特に父親とは反りが合わなくなります。
その際に聖フランシスコが父に述べたことは

「わたしは今まで、あなたをお父さんと呼んできました。しかしこれからは、天の神様だけをお父さんと呼びます」
こうしてすべてをなくして、神と人びとに奉仕して生きていこうと、かたく心に決めました。
(16頁)

文章も子どもにもわかる言葉で伝えようとしていることがとても伝わるのですが
この子ども向けの表現だからこそより飾らない率直な気持ちや意志がストレートに伝わってくるなと感じました。
これは一人の青年が親元を巣立っていく・・そんな場面ですね。ここの絵は白と黒が強調されています。
その色合いが親子の対立している様子も表されているようで、いろいろと感慨深いです。

・最初の兄弟ベルナルド

何かを習得する時、必ずお手本にする何かがあると思います。それは直接先生から学ぶことであったり、本から学んだり(本も人が書いていますしね)

私もなるべく教えてもらえるなら、師として仰ぎたい存在であってほしい。
自分自身も信じているはずだけど本当はどうなの?(笑)と少し様子を見ているわけですね。

そしてベルナルドは聖フランシスコを少し試すことにするのですが・・
ベルナルドがフランシスコとともに生きていこうと決意するシーンです。

(2016年 藤城清治影絵展 図録より)
聖フランシスコが涙を流しながら夜通し祈り続けた様子をベルナルドが隠れてみているシーンなのですが、
真ん中に灯った光と窓から入る光がとても幻想的で表現豊かです。
夜の薄暗い光に影が伸びて、祈りに両手を広げる姿も影の大きさも相乗効果があり、より強く祈る様子となって表れています。

このように読み進めていくと、聖フランシスコの心からの行動に少し触れられて、
やはり、人の心を動かすのは人の熱なのだなと思います。とても不思議で神秘的です。

たとえ貧しくても、正しく清く生きていきましょうと愛を説くフランシスコの姿を見て、
役に立ちたいという人はひとり、また一人と増えました。(20頁)

だんだん共感していく仲間を増やしていき、また新しい出会いが続きます。

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