今週(2021年6月18日)のNHKテレビ番組『チコちゃんに叱られる!』の中で、こんな問題と答えが出ました。

問題:男爵いもの男爵って誰?
答え:川田(かわだ)男爵

男爵いもの男爵って、本当に実在の男爵のことを言っていたんですね!?てっきり、じゃがいも達の間に男爵とか伯爵とかの貴族的な階級でもあるのかと思ったのですが、いやいやとんだ勘違い(いつものこと^^;)。

では川田男爵とはどんな方なのでしょう? なぜあのほくほく美味しいじゃがいもにその名前が付けられたのでしょうか?
調べてみたら、その昔、川田男爵がこのじゃがいもを海外から取り寄せ品質改良し、安定的な栽培に成功したことで、周辺の農民達ひいては北海道全域が大いに救済されていたことがわかりました。そして、男爵の大活躍の裏には悲しい恋のエピソードがあったことも・・・。
江戸末期に生まれ、なんと昭和の戦後まで生き抜いた一人の男の物語。しばしお耳を(といいますか、お目を)お貸しいただければ幸いです。

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川田男爵はスコットランドでじゃがいもと恋人に出会った

川田男爵は、名前を川田龍吉(かわだりょうきち)といいます。
1856年(安政2) 土佐郡杓田町(今の高知県高知市)に生まれました。
1874年(明治7) 父とともに上京。
1877年(明治10) 21歳になった龍吉は父から強く勧められ、世界一の造船技術を学ぶために英国へ留学することになります。スコットランドのグラスゴーにあるレンフリュー造船所で技師見習いとして働き始め、翌年にはグラスゴー大学工学部にも入学します。
大学での学問と造船所での実地訓練に励むことで、龍吉はめきめきと船舶機械技術への造詣を深めていきました。


また、土佐の田舎で幼いころから農作業を好んでいた龍吉は、スコットランドでもよく農村地域へ出かけていました。
「偉大な工業国は、偉大な農業国でもある」とは龍吉の有名な言葉ですが、彼はそのことをスコットランドで実感していたのです。


そうして英国滞在も6年ほどが過ぎたころ、彼は一人の女性と知り合います。
名前は、ジニー・イーディー。
とある書店で働く19歳の娘でした。
この日、龍吉は布張りの地図を探してその書店を訪れたのですが、あいにく調達できなかったようです。しかしそのおかげで数日後、ジニーから、まだ地図を探しているようなら出版社に問い合わせて地図を送らせるとの手紙が届きました。ジニーの気配りに龍吉は感激しました。すぐに次の週末に再び書店を訪れ、そうして龍吉とジニーは親しく言葉を交わすようになりました。


二人が互いを熱く想い合うようになるまでに時間はかかりませんでした。
毎週のように二人は会っておしゃべりを楽しんだり一緒に大好きなじゃがいも料理を食べたり、郊外に出かけてスコットランドの豊かな自然の中を散策したりしました。白い花が咲き乱れる広大なじゃがいも畑を眺めながら行く散歩道は特にお気に入りでした。そして会えない日には心をこめた何通もの手紙を送り合いました。
やがて龍吉はジニーに結婚を申し込み、ジニーは喜んで承諾します。それが1884年3月2日のこと。ジニーは龍吉と結婚したら日本に住むことまで受け入れてくれました。欣喜雀躍、龍吉はジニーと送る日本での新しい生活を夢見ました。
ところが、なんと父の大反対にあってしまうのです。

龍吉の父、川田小一郎という人

龍吉の父、川田小一郎は土佐の郷士の生まれです。正規の教育を受けることもできない貧しい育ちだったにもかかわらず、財を扱うことに非常な才能を見せました。それを認められて藩の会計方に登用され、勧業、鉱業、通商の事務を担当するようになりました。
明治になってからは岩崎弥太郎や石川七財とともに三菱創始者のひとりとなった人でもあります。鉱山業や海運業、造船業などの基幹産業への積極的な投資で三菱の繁栄の土台を築き上げました。
1889年(明治22)には第3代日銀総裁になり、その翌年に起こった日本初の経済恐慌を見事乗り越え、さらに日清戦争においても国の財政を堅持させることに力を尽くしたという、すごい人物です。


そんな父からの大反対に、龍吉は逆らい切ることができませんでした。
ただ反対するだけでなくジニーからの手紙が龍吉に届かぬよう手を回したり、勝手に結婚相手の候補者を選んたりする父。龍吉の中に強い反発心や怒りの感情がなかったとはとうてい言えません。
しかし一方で龍吉は、こどものころから父が藩の財政を担って八面六臂の活躍をする姿をも見てきました。明治に入ってからは、岩崎弥太郎らと三菱を育てる大車輪の働きでした。龍吉が明治初期という時期に7年ものあいだイギリスへ留学できたのも、三菱からの経済的援助があってのことなのです。
龍吉はそんな父の凄さを肌身に感じており、尊敬もしていたはずです。

それからの龍吉

父はあくまでジニーとの婚約を認めず、強制的に龍吉を帰国させました。それ以降、龍吉はジニーからの手紙も受け取ることはできませんでした。そして龍吉はもう二度とジニーのことを話すことはなくなりました。
その後はひたすら留学で得た知識と技術をふるい、明治期の日本造船工業発展のために尽くします。世界一の造船技術と称賛されていたグラスゴーの造船所でも、留学先の大学でも、共通して高く評価されていたほどの優秀な人材でした。
その後の経歴で主だったものは・・・


1884年(明治17) 日本に戻ってきた龍吉は三菱製鉄所に入社。
1885年(明治18) 日本郵船会社に出行。製図掛、監督長を歴任。
1888年(明治21) 高知小町とうたわれた美貌の楠瀬春猪と結婚。
         (二人の間には8人の子供が生まれます。)
1893年(明治26) 横浜船渠会社(のちの三菱重工業横浜造船所)の取締役に就任。
1896年(明治29) 前年に男爵に叙せられていた父が急死。龍吉が男爵を継ぐ。
1897年(明治30) 横浜船渠社長に就任。民間で初めて石造りのドックを製造。


・・・など様々なことが起こり、また手腕を発揮していきました。


やがて、龍吉は一つの転機を迎えます。
1906年(明治39) 横浜で発揮された彼の仕事ぶりを高く評価した渋沢栄一が、やはり経営危機に陥っていた函館船渠会社の立て直しを要請してきたのです。
龍吉は急ぎ函館へおもむきます。
そしてすぐに、気づくことになるのです。北海道には、今まで過ごしてきた日本のどこにもない、なにかスコットランドを思い出させるものがある、と。


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男爵いもの名の由来

今でも、北海道の風景ってどことなくヨーロッパっぽくない?といった感想を見聞きすることがよくあります。事実、たとえばグラスゴーは年間気温や降水量などがかなり函館と似ています。北海道全体をみても、森林や原野の植生や山々のなだらかな姿、生息する動物の種類など、やはり北方圏の特徴がよく出ています。


函館船渠会社の取締役を引き受け、経営立て直しに奔走しはじめた龍吉ですが、農業にも高い意識を持っていました。北海道では低温による飢饉が度重なり、農民たちは常に疲弊していました。龍吉は函館船渠で会社の再建に奮闘しつつ、自費で函館郊外の七尾村に農場を開き、農作物の栽培、改良に全力を傾けていきます。


龍吉が函館船渠の取締役であったのは1906年から1911年まででしたが、取締役を辞した後も相談役を務め、函館に留まりました。
スコットランドに7年の留学経験がある龍吉は、造船だけでなく農業の分野でも欧米の優れた技術を目の当たりにしていました。そこで、七尾村の農場でも積極的に最新の外国製農機具や肥料を次々と購入し、欧米から取り寄せた様々な作物の栽培に挑戦しました。


やがて、イギリスのサットン商会から購入した数種類のじゃがいものうち、『アイリッシュ・コブラー』という種類が冷害に強く収穫量も多いことがわかりました。龍吉は自分で栽培するだけでなく、周囲の農家にも種芋を分け与えて栽培を促しました。
当時はまだ品種名が不明とされていたので、人々は日ごろ川田男爵様からいただいたいもだからということで感謝をこめて『男爵いも』と呼んでいました。そして七尾村が農業会にこのいもを農家達共同で出品しようとなったときに、そのまま品種名とした、というのがこの名前の由来なのです。


龍吉は男爵という身分にありながら、みずから農民達と交わり農作業に精を出し、知識と経験を生かして地域の発展に尽くしました。特にじゃがいもの栽培・改良にはまわりがおどろくほど熱心で、『男爵いも』は彼の手がけた代表作といってもいいものです。冷害の被害が大きく米の収穫が安定しにくかった北海道では、『男爵いも』の存在はかけがえのないものとなっていきました。はじめは七尾村周辺で栽培されていただけのものが、農家に請われて種芋が全道へと広められていきました。
自然災害から救われるだけでなく、1914年に第一次世界大戦が勃発した際にはじゃがいものでんぷん価格が高騰し、男爵いもを栽培していた農家はおおいに潤いました。さらに太平洋戦争時に食料配給が減少した際も、『男爵いも』のおかげで食料難を切り抜けることができました。
人々が感謝を込めて建てた碑や資料を集めて展示しているものを、北海道では今も様々な地で見ることができます。

最晩年の龍吉。そして・・・

龍吉は晩年を、別荘のある当別という地で暮らしました。江戸末期に生まれ、明治から大正、そして昭和の戦後までを生き抜いた長寿に恵まれた人生でした。けれどそれだけに肉親との別れも多く経験しました。
妻の春猪はすでに1939年(昭和14)に死去しています。8人の子供たちもほとんどが先立ちました。


1948年(昭和23) 龍吉は、別荘からほど近い当別トラピスト修道院で洗礼を受けています。3年後に亡くなるまでの間、龍吉の胸にはいかなる想いがあったのでしょうか。


龍吉はジニーについて誰にも何も語らず、書き残すこともありませんでした。
けれど彼の死後、何年も経ってから、人々は彼の残した金庫を発見しました。中には、金色の髪の束を丁寧にくるんだ包みと、89通の手紙がしまわれていました。手紙は英語で書かれていて、ジニーから龍吉にあてたものでした。
スコットランドで初めてジニーに出会ったときに、龍吉は地図を探していました。数日後、その地図がまだ必要かどうかジニーは手紙で尋ねています。そこから始まって、おそらくはその後も彼女とやりとりした手紙のほとんどを、こうして龍吉は大切にとっていたのでした。


函館に来た龍吉がスコットランドを思い出しただろうことは想像に難くありません。じゃがいものこともきっとそうだったことでしょう。当地でも人々を飢えから救ってくれる作物として愛されていましたし、なにより龍吉にとってはいつもジニーとの想い出に彩りを添えてくれる懐かしい食べ物でした。

まとめ

龍吉は今、洗礼を受けたトラピスト修道院のルルドへの道の途中にある教会墓地に眠っています。
たとえ龍吉の言葉がなくても、私達は今、龍吉があんなにも熱心に『男爵いも』を育ててくれた行いと、愛情あふれるメッセージがつづられたこの手紙達が残されていたことに、龍吉の心を推し量ることができるのだと思います。