2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公北条義時は、鎌倉幕府の第2代執権として、幕府の治世を盤石にしたことで知られる人物です。

大きな功績を残していますが、あまり教科書などには取り上げられていないので、義時の人物像やどんなことをしたのかは、よく知られていないのではないでしょうか?

初代執権・北条時政の次男として生まれ、姉の政子は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の妻。生まれながらにして権力をめぐる争乱の真っただ中にいた義時は、いったいどんな功績を残し、どんな人生を歩んだのか、気になったので調べてみました。生存中どんなことをしたのか、簡単にまとめています。

スポンサーリンク

北条義時の功績は?どんなことをした人?

(北条義時・イラストAC より)

源頼朝の忠実な部下として活躍

平治の乱の敗戦で伊豆に流罪になった頼朝の監視役になった父・時政。ここから源氏と北条氏が関わり始めました。その縁で姉の政子は頼朝と出会い、妻となります。

義時も父とともに頼朝と行動を共にし、1185年(元暦2年)平氏を打ち倒すために西国へ行き、葦屋浦の戦いで活躍。頼朝の弟・義経亡き後、奥州藤原氏を追討する奥州合戦に従軍。側近として手柄を立てます。

奥州合戦で天下をとった頼朝は、1190年(建久元年)に上洛。その際、身辺警護のための随兵7名のうちの一人に選ばれるほど、頼朝から厚い信頼を得ていました。

13人の合議制と権力争いの末、父を追放して権力を掌握!

鎌倉幕府が開府し、源平の争乱や政治の混乱がおさまったと思われましたが、1199年(建久10年)頼朝が急死。ふたたび政局は混乱してしまいます。

頼朝の後を継いだ頼家(よりいえ)は、まだ18歳。
頼家には独裁的な判断がみられるとして、それを抑えるためと称し、家臣たちによる13人の合議制が敷かれます。もちろんこの13人の家臣たちの中に、義時と父の時政も加わっていました。中でも義時がいちばん若かったので、権力はそんなに強くはなかったのでしょう。

しかし、13人が協力しあって政治を動かしていたというわけではありません。
誰が権力を握ろうかと虎視眈々。覇権をめぐっての権力争いが始まります。

(北条時政・イラストACより)

義時と時政親子も、ともに有力な御家人を排除していきます。

梶原景時(かじわらのかげとき)は幕府から追放され、一族もろとも滅ぼされます。

また、頼家が信頼する家臣であった比企能員(ひきよしかず)の一族も時政の策略によって滅ぼされ、頼家も義時父子によって追放されるのでした。こうして第3代将軍として実朝(さねとも)が就任し、北条氏は執権として権力を握ります。

一丸となって有力御家人を排除してきた義時と時政親子でしたが、父子が権力をめぐって対立するときが来ます。

1205年(元久2年)、義時は姉の政子と協力し、なんと父の時政を伊豆の国に追放してしまいます!
そして父の後を継いで第2代執権に就任。

義時はついに幕府の最高責任者となり、3代将軍実朝の信頼を得ていくのでした。

3代将軍実朝暗殺? 権力を確固たるものに

1219(承久元年)、実朝が暗殺される事件が起きます。

実朝は次第に義時の意のままにならなくなっていたらしく、この実朝の死は、義時が裏で手を引いていたのではという説も残っています。

実朝暗殺で源氏の血を引くものが途絶えたことにより、幕府は大混乱。

お互い権力を握りたい幕府と朝廷とで次の将軍を誰にするかが折り合わず、結局頼朝の遠い縁戚で、わずか1歳の藤原頼経(ふじわらのよりつね)が4代将軍になります。

頼経が将軍とは名ばかりで、実際は姉の政子が後見人となって政治の実権を握り、義時が執権として実務面を補佐。姉弟で幕府の権力を掌握したのです。

承久の乱で上皇を島流しに!幕府の支配は盤石に

(後鳥羽上皇・イラストACより)

実朝亡き後、将軍問題で折り合いのつかなかった朝廷側と義時たち幕府側。

結局、義時たちが幕府の権力を確固たるものにしたのですが、朝廷の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は面白くありません。
権力回復をのぞみ、義時を討とうと挙兵します。

上皇は義時を朝敵として追討する院宣(いんぜん)を全国の有力武士に出しますが、思惑は大きく外れ、鎌倉武士たちは義時、政子のもとに集結。

余裕をかましていた朝廷はあっという間に敗北し、後鳥羽上皇はじめとする3人の上皇は、隠岐に島流しにされてしまったのです。

こうして鎌倉幕府の政治体制はさらに強まり、その支配は日本全国に及ぶようになります。

義時はどんな人だった?

功績を見ていくと、権力のためにどれだけ冷徹な人物だったのか?心はあるのか?とまで思ってしまう義時。

父親を失脚させ、頼家を追放、実朝を暗殺し(疑惑ですが)、後鳥羽上皇を隠岐へ配流・・・。
やはり評判は良くなく、明治期には、朝廷を敵に回した陰険な策略家としてとらえられていたようです。

いったい、実際はどんな人柄だったのでしょうか。

とはいっても、1000年以上前の人物。当時の文書や史実などからその人柄を想像するほかありません。

鎌倉時代に編纂された『古今著聞集』(13世紀に編纂された世俗説話集)には、義時は「竹内宿禰(たけうちのすくね)の生まれ変わり」との記述があります。義時亡き後、世間で語られていたということでしょう。

竹内宿禰は古墳時代、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の天皇に仕えたという伝説上の人物。日本書紀には天皇5代にわたって、その活躍が記されています。

史実通りだと200年以上も生きたことになりますが、その間、天皇に忠誠をつくし、多くの人々に崇められた存在です。

義時も若い頃から頼朝の忠実な部下として行動し、信頼を得てきました。
頼朝亡き後、主君が作り上げた幕府を盤石なものにするために、ひたすら戦い続けたとも考えられますね。

その姿から、竹内宿禰の生まれ変わりと言われるようになったのでしょうか。とても優秀な策略家、政治家であったといえます。

北条義時のお墓はどこにある?

(法華堂跡・写真ACより)

義時は承久の乱の3年後、62歳で急死します。
死因は衝心脚気(しょうしんかっけ:脚気にともなう症状で突然の心臓機能の不全などを引き起こす)と言われていますが、暗殺されたとの説も残されています。

義時が眠っているのは、鎌倉の西御門にあったとされる法華堂跡。今は更地で何もありませんが、2005年(平成17年)に発掘調査で遺構が発見されました。

近くには義時の主君であった頼朝の法華堂跡もあり、頼朝のお墓と伝えられる石塔が残っています。

武家社会の礎を築いた頼朝、義時を偲んで、法華堂跡を訪れてみてはいかがでしょうか。

法華堂跡所在地:鎌倉市西御門2丁目5
電話番号:0467-61-3857(鎌倉市文化財課)

 

まとめ

来年の大河ドラマの主役・北条義時についてご紹介しました。
どんな人物だったのか、少しでもつかんでいただけたら幸いです。

自分の目的のためには手段を選ばない義時ですが、そのおかげで鎌倉幕府は強固になり、のちに続く武家社会ができあがりました。
歴史上の功績はとても大きい人物ですね。

大河ドラマではどんな義時が描かれるのか、楽しみです。