姫路城の始まりは1346年。(ちなみに廃城は1871年とされています)
姫路城は「平山城」といって、平野の中の山や丘陵などに建てられたお城で、現在の姫路中心部の北側にある姫山、鷺山を主にして築かれました。
長い歴史の間にどんな人物が城主となり、どんな歴史的背景があったのでしょうか。
地元民が詳しく解説していきます!
姫路城を築いたのは誰?
これには2つの説があり、ひとつは赤松貞範(あかまつさだのり)が築城したというもの。
南北朝時代に赤旗一騎を形成して活躍し、室町幕府の確立に力を尽くした赤松貞範が1346年に姫路城の基礎となる城を築いたとされています。
そしてもうひとつの説は、赤松貞範が築いたのは砦や館など400㎡ほどの小規模なもので、城郭のような大きな規模のものは西播磨地域で大きな勢力を持っていた小寺氏の家臣である黒田重隆(くろだしげたか)・職隆(もとたか)親子が築いたので、彼らが築城したというものです。
姫路市では赤松貞範の築城説を採っているようなのですが、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」をずっと見ていた私は黒田親子の築城説もありだなと思うんですよねぇ・・・。
歴代の城主は?
長い歴史を持つ姫路城。
その城主を務めたのはなんと13氏48代にもなるそうです!
ここではその中の主だった城主をご紹介します。
〇赤松貞範
姫路城を築城したとされる。
南北朝時代に活躍し、後に室町時代前期を代表する大名になりました。
〇小寺家(1349年~1441年)
赤松一族の武将だった小寺家が、赤松家の城代として姫路城を治めていました。
※城代:大名から城郭や周辺領土を守ることを任された家臣のこと
〇山名宗全(やまなそうぜん)(1441年~1467年)
応仁の乱で西軍の大将となった武人で、室町時代の武将、守護大名。
当時播磨を護っていた赤松満祐(あかまつみつすけ)が姫路に戻った際に山名宗全が討ち、代わって自身が播磨の守護となりました。
〇黒田家(1545年~1567年)
小寺家から命じられ姫路城の城主になりました。
この頃、黒田職隆は百間長屋を建て貧しい人や下級武士、職人、行商人などを住まわせて自分たちの配下にして情報収集などをしていました。
この黒田職隆の息子である孝高(よしたか)は後に「黒田官兵衛」となります。
〇黒田官兵衛(1567年~1576年)
軍師として類稀なる才能を発揮した黒田官兵衛が黒田家の当主として姫路城を治めました。
官兵衛は地元の住民などを上手く使い、自分たちの策に協力させるというのが上手だったという印象があります。
大河ドラマにもなるほどの人物ですから、よほどの凄腕だったというのが分かります。
息子に家督を譲った職隆は姫路城の南東にある国府山城(こうやまじょう)で隠居生活に入りました。
〇羽柴秀吉(1580年~1582年)
織田信長に臣下として従っていた羽柴秀吉は、黒田官兵衛を軍師として信頼していました。
信長から中国地方攻略を任された秀吉は、その拠点として官兵衛から姫路城を献じられ、姫路城の整備や城下町を築き、これが現在の姫路市の基礎となっています。
秀吉が亡くなる1598年までの間、羽柴秀長や木下家定などが姫路を治めていました。
〇池田輝政(1600年~1613年)
関ヶ原の合戦で活躍した池田輝政が大名になり、城下町の大改修と1609年には現在の大天守閣が完成しました。
輝政が亡くなった後も1616年まで池田利隆、池田光政が姫路を治めていました。
〇本多忠政(1617年~1618)
大阪の陣での活躍により西国大名の抑えとなり姫路城に入り、この時代に姫路城西の丸が築かれ、ほぼ現在のお城の形になりました。
こうして歴代の城主を振り返ると、有名な人物の名前も出てきますね。
羽柴秀吉が現在の姫路市の基礎を作ったというのがとっても驚き!と同時にそんな有名な人が姫路の町を作ってくれたのだと誇りにも感じますね。
姫路城が競売に?!
明治4年に廃藩置県が行われ、全国にあるお城は「役に立たない邪魔なもの」になってしまいました。
姫路城は熊本城や名古屋城とともに廃城は免れ当時の行政機関である兵部省(ひょうぶしょう)の管理下になりました。
ただ、老朽化が進んでいて修理にも莫大な費用がかかるため競売にかけられることになりました。
それを地元の商人だった「神戸清一郎」という人が競売で1871年に落札。
その金額は23円50銭・・・ちょっとピンとこないので、現在の金額に換算すると約10万円ほどだったそうです。
10万でお城が買えるって・・・びっくりですね!
ところが、お城の維持や瓦など資材の売却などが上手くいかず、かと言って取り壊すにも莫大な費用がかかる・・・ということで、残念ながら1878年に権利を手放してしまったそうです。
やはり建物が大きすぎるだけに色々と大変だったようですね。
それにしても、明治時代に競売や落札といったシステムがあったことも驚きでした!
危機に直面した姫路城!救世主現る!!
明治7年、お城敷地内に大日本帝国陸軍の連隊「陸軍歩兵第十連隊」ができることになり、姫路城の槍や門が取り壊され、大天守も取り壊しの危機に陥りました。
しかし、当時の陸軍省第四局長代理だった「中村重遠(なかむらしげとお)大佐」が姫路城のすばらしさを残さねばいけない、永久保存のために修理しましょう!と陸軍大臣に意見書を出したことにより、姫路城の保存が決まりました!
大佐が声を上げなければ姫路城は取り壊されて、私達が目にすることはなかったと思うとまさに救世主ですね!
姫路城内には大佐の貢献をたたえる碑が建てられています。
姫路城の歴史と歴代城主をご紹介しましたが、いろんな人たちが長い間お城を守ってくれていたと思うととても感慨深いですね。
これからも沢山の人が姫路城を訪れてくれるよう地元民は願っています。