ウソをついたら閻魔様に舌を抜かれるよ」と、良く言われたものだ。(言われてない?)あの頃は「怖い!」と思ったけれど、よくよく考えると、一体いつ閻魔様に会う機会があるのだろうか。閻魔様って本当にいるのかな。
大人になるにつれて、気が付けばだんだんそれも忘れていって、怖いものがなくなってきた頃。人は生涯を終え・・三途の河を渡った先に、ついに本当に閻魔様と対面する機会を得るかもしれない。(笑)
(ここは写真は撮れないので、リーフレットから)

北鎌倉駅から歩いて15分くらいのところにある「円応寺」は、閻魔様で有名なお寺だ。今回はこちらの閻魔様に会いにいってきた。

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・閻魔様の何が怖い?

閻魔様といえば地獄の王様。
閻魔様の顔は怖くいつも怒っているイメージがあるが、なにが怖いのだろう。得体のしれない大きな存在による不安?何をされるかわからない怖さ?
多分誰もが何かしらの自責の念のひとつやふたつあるものだから、そういう心の根に何かザワザワさせるものがあるのかもしれない。

そして閻魔様と言えば、地獄
地獄=怖い、辛い、苦しい・・そんなイメージもある。

実際に見たことはないが、地獄絵図などは何度か目にしたことがある。体を切り刻まれたり、灼熱の中に入れられたり、鍋で茹でられたり、ただただ奈落へ落とされたり・・!!そこから察しても、地獄は想像を超えた結っっ構、厳しそうなところだと思う。
なるべくならお世話になりたくない。だが閻魔様基準の罪はだれにでも当てはまるような所業すら見逃さない。このままでは地獄の世界に行く機会を得てしまうかもしれない。でも今ならまだ、今なら間に合うと思う!
ぜひ、このお寺から始めてみよう!(笑)

・円応寺の閻魔様の歴史


円応寺は別名「閻魔堂」とか、「十王堂」ともよばれている。知覚禅師が開山したお寺だ。(お堂には彼の像もある)
実はお寺自体もともと昔は長谷の方にあったらしいが、地震や津波の被害のためこちらに移されたそうだ。
ここ円応寺のご本尊は木造の閻魔王坐像なのだが、それを掘ったのはあの有名な仏師、運慶の作と言われており、国の重要文化財にもなっている!

ちなみにこのお寺での有名なエピソードなのだが、
運慶が晩年、命が尽きそうになった時、運慶自身が閻魔様の前に出されたのだそうだ。その時、慳貪心(けんどんしん、貪欲の心)の罪により地獄に落ちるべきところだったのだが、閻魔様が「自分の彫刻をつくって、その像を見た人々が悪行をせず、善き縁に趣くのであれば娑婆に戻してやってもいい」、と言われて(そんな軽い感じではなかったはずだが・・)、運慶は現世に戻ってきたそうだ。
その運慶が、生き返ったことに喜び笑いながら彫刻を掘ったため、ここの閻魔様は笑っているようにも見えると言われており、そのことから「笑い閻魔」とも呼ばれている。

ここでは省略するが、他にも鎌倉の昔話から「子食い閻魔」とか「子育て閻魔」などの異名もあるのだそう。

・十王という考え

この「十王堂」とも呼ばれるお寺は、閻魔様含む、十王という地獄の審判をする十の王様がいるからそう呼ばれているのだが、各々の象徴する審査について、ユニークな仏像となってお出迎えしてくれるお堂となっている。
ここではその十王が出現順に並んでおり、我々の死後の流れも把握することが出来るようになっている。

十王とは、亡者が冥界で出会う十人の王さまのこと。この王様それぞれが生前の行いへの審判を下す。亡くなったから「はい、おしまい」ではない。亡くなった後も、たとえどこであろうと!罪を問われ、きちんと行き先が決まるまでは見逃してくれることはない。

・奪衣婆がお出迎え!

私はいちばんこのおばばが怖いと思う!!(笑)
人が亡くなり肉体を離れて亡者となり、冥界について第一関門である。嫌がる姿を物ともせず、来ている衣を剥ぎ取る。身ぐるみを剥がされるとはまさにこのことだろうか。

亡者の衣を剥ぎ取り、そしてその剥ぎ取った衣を木に掛けてしならせる。実はその重さによっても、生前の業が見られる。
そしてその重さによって死後の行き先も変わってくるというのだから驚く。そしてそれすらも罪の計らいの対象のひとつになるとは恐ろしい!

もちろん三途の河だって簡単に渡れるわけではない。
罪の重さによっては浅い河であったり、深い激流だったり通れる場所もそれぞれ決められてしまう。

・十王一挙ご紹介

ここのお寺では7日ごとに特徴的担当のそれぞれの王様が配置されている。その十王の仏像が反時計回りの順に並んでいるので、初七日から順番に各王様の説明を見ながら読み進めることが出来る。
各王様が一挙に並ぶと圧巻だ。またとても怖い顔で目力の強い王様が多い。でもよく見ると王様のほとんど頭の帽子に「王」と付いてあるのは少しかわいい。

このいかにも厳しさの塊のような十王だが、実はそれらすべては仏様の化身だということを覚えておきたい。何故、十王となって我々に教えをくれるのか。
十いる王様は一体何を審判しているのか、簡単に見ていこうと思う。

・初七日の秦広王(しんこうおう)は不動明王の化身。
 生前行われた善悪の業をすべて調べられ、殺生の罪も調べられる。

・二.七日の初江王(しょこうおう)は釈迦如来の化身。
 奪衣婆が剥いだ衣の重さも考慮しながら、盗みの罪など調べられる。

・三.七日の宋帝王(そうていおう)は文殊菩薩の化身。
 猫と蛇によって邪淫の罪が問われる。

・四.七日の五官王(ごかんおう)は普賢菩薩の化身。
 亡者の身口の罪を秤にかけて問われる。

・五.七日の閻魔大王(えんまだいおう、ここ!)は地蔵菩薩の化身。
 浄玻璃の鏡で亡者の善悪の業をすべて写して記録する。

・六.七日の変成王(へんじょうおう)は弥勒菩薩の化身。
 五官王の秤と閻魔様の鏡に写った善悪について、悪行があれば責められ、善行であればさらに善を成すように言われる。

・七.七日の泰山王(たいざんおう)は薬師如来の化身。
 前の三王の審判によって次の世が決定する。ここでは六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)と呼ばれる世界のどこか。

ちなみにこの四十九日まではあの世とこの世を行ったり来たりができるそうだ。

・百か日の平等王(びょうどうおう)は観世音菩薩の化身。
 前王に行き場所を定めてもらえなかった場合はこちらに送られる。ここからは遺族の力もかかわってきて、遺族に貪りの心がないか問われる。

・一周忌の都市王(としおう)は勢至菩薩の化身。
 遺族に怒りの心がないか問われる。

・三回忌の五道転輪王(ごどうてんりんおう)は阿弥陀如来の化身。
 愚痴などを慎んで、法要を行うことにより、亡者の追善供養に加え、地震の現世における徳にもなって、善行を積むことが出来る。
 それは来世への平安にもつながるというわけだ。

このように見ていくと、自分を褒めて他人を褒めない罪とか、邪婬の罪とか、七つの大罪のような欲の罪もあった。「これも罪になるのか・・」と思うこともあって、自分の感覚と比較してみても面白い。とはいえ本当にこのままでは「はい!地獄行き決定!」という感じになりかねないと思った。

この十王思想ははるか昔の中国の仏教やインド思想など取り入れているものであり、考え方としては善か悪かが強いものとはなっているが、亡くなった仏様を大切にするきっかけにもなるし、傲慢な気持ちになった時の戒めにもなるのでいいなと思う。

そしてこのお寺では、十王の最後に延命地蔵が並んでいるのも感慨深い。

・地蔵菩薩

ここは地蔵菩薩に縁があるお寺だ。霊場としても、鎌倉十三仏第5番目霊場であり、鎌倉二十四地蔵第8番霊場でもある。十三仏の中でも担当は地蔵菩薩。
代表の閻魔大王は、地蔵菩薩の化身なのだ。

閻魔様は悪行が許せず亡者を地獄に落とすが、その罰として自身も毎日3度、熱いどろどろに溶けた銅を口から流し込む刑 他、いろんな地獄で受ける罰よりも重い刑を受けているのだ。
なぜそこまでして・・と思うがそれが地蔵菩薩の化身である証拠である。

以前、お地蔵さまの人への寄り添い方について知ったが、それは直接手を差し伸べて直接救済することはできないけれど、一緒に苦しみや辛さを寄り添って味わってくれる、苦しみを一緒に体験してくれるのだと聞いたことがある。
実際、すぐ救ってしまう方が簡単なこともある。そちらの方が救う側も楽だったりする。だけど、それでは本人はまた同じところでつまずくことになる。だがそれをせず見守るというのは、根気がいるし、並大抵なことではない。

それが出来るのは人を諦めず、信頼し、愛おしいと思うからこそではないのか。
お地蔵さまはわざわざ地獄まで救いの手を差し伸べにきてくれる。
この六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界・人間界・天上界)と呼ばれる世界のどこにもいて、それは地獄も含まれる。

ここの閻魔様の説明にも、閻魔様はすべての人を救いたいと願っている、とあった。
そして生前の悪行も地獄で苦しみ続けている罪ある者も、自らの罪を認めて懺悔する許されるそうだ。
そして閻魔様はお地蔵さまに姿を変えて地獄の底まで救いに来てくれる。それに甘んじるわけにはいかないが、少しだけ心の拠り所としての救済措置があるところがとても有難い。

・罪について考える

このお寺は亡くなった後の死後の世界、それが本当にストレートに表現されているので罪と普通に向き合わされる。なのでいつも色んなことを想像してしまう。
地獄の審判の十王を目の当たりにして、説明書きを読めば読むほど、つくづく人は罪深い生き物だと感じさせられる。

そして、ここでいう「罪」は虫1匹も潰してはならないというような、人だったら全員当てはまるであろうものだ。なのでご飯を食べて生きてきた人間にとっては、全く罪を犯していないものは1人もいないということになる。

この十王のエピソードを見るまでは、平気で「私は何もやってない」などと、いうことが出来たが、今では胸を張って言えそうにない(笑)

少なくとも生きれば生きるほど罪を重ねて行く。食べ物だって元は生き物だし、人は機械ではない。間違えを犯し、失敗するものだ。
それが罪といえば罪だ。
だが、それは仕方のないこと。この世で自然に生きるためには、食物連鎖は必要で、自分も食べなければいきていけない。
もちろんいまのこの地球では、人間が食べられることは阻止されている状態だし、病気も治せる。連鎖から少し外れた人口が均衡を保たず増えて行くという状態になっているのは一目瞭然。
だが、罪を重ねること以外に「徳」を積むこともできる。
罪を償うことをきっかけに「徳」を積むことを始めてもいい。どこからでもやり直せるというものだ。

寺や仏像を極楽浄土に自分が行くために後世にまで残るような仏像を作らせる方々がいる中、なぜこのお寺は閻魔様にしたのだろう。
閻魔大王と地蔵菩薩が同一人物と聞いて、今回少し納得してしまった。

・アクセス

臨済宗 建長寺派 円応寺
JR横須賀線 北鎌倉駅から徒歩15分
拝観時間
3月〜11月 9:00〜16:00
12月〜2月 9:00〜15:30
拝観料200円
(結構早いので、御朱印をいただく時はお早めに!)

・最後に

「ああ。悪いことはするもんじゃないね」(笑)ここを出るころには、そんな風に思えてきて、、少し謙虚な気持ちになってしまう。
そして、閻魔様の慈悲深さに改めて気付かされる。これが本当の愛情だなと。
そんなお寺である。

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