あの横浜スタジアムから1年半が経った2016年4月29日、わたしはナゴヤドームにいた。
そこは、氷室京介4大ドームツアー「KYOSUKE HIMURO LAST GIGS」の3公演目の場所。
(ライブ活動休止前、氷室京介の「LAST GIGS」は、4月23・24日の京セラドーム大阪を皮切りに、ナゴヤドーム、福岡ヤフオク!ドームを経て、ファイナルステージである東京ドーム3DAYS。ドームツアー全7公演で、30万人以上のファンを動員したという)
土砂降りの横浜スタジアムで「リベンジ」を約束してくれた、氷室京介からの最後のプレゼント。
わたしは幸運にもそのプレゼントを4日間、しっかり受け取ることができた。
今回は「KYOSUKE HIMURO LAST GIGS」(ナゴヤドームと東京ドーム3DAYS)に4日間参戦した一人のファンとして、この記事を書かせてもらいたいと思う。
時が経ち今もなお、想いは色褪せない。

スポンサーリンク


わたしはライブ開場前の、まだ静かなそこの空気と馴染む時間がとても好きだ。空を見上げ、深呼吸すると、神聖な気持ちになっていく。「今日のライブも成功しますように」と、心の中で願う時間をずっと大切にしてきた。少し大げさかも知れないけれど、「KING OF ROCK」をストイックなまでに貫く氷室京介と対峙するために必要な時間だとも感じていた。
そして、近づくリハーサルの時間。
氷室京介は毎回、ライブ当日のリハーサルには2時間ほどの時間を費やし、一曲一曲、確認していく。
「KYOSUKE HIMURO LAST GIGS」この日も、変わらずそうだった。
強く冷たい風の12時20分、ナゴヤドーム。
BOØWY時代の曲「ミス・ミステリー・レディ」が聴こえてきた時の感動は、今も忘れられない。生で聴くのは初めての曲で、しかもライブとは違う環境で聴くことができた幸せを噛みしめていた。もっと近づきたくて、自然とドームの壁に耳をくっつけていた。そんなわたしの姿を見て、同じように耳をくっつけて聴いている人がどんどん増えていた。この時間が愛おしくて気づけば2時間も同じ場所にいた。

KYOSUKE HIMURO LAST GIGS 2016年4月29日 ナゴヤドーム MC

「日本に帰ってくる度に、名古屋は第二の故郷だなと感じる。東海ラジオの加藤与佐雄さんという、めちゃくちゃ世話になった人がいて。加藤さんがBOØWYをライブハウスで見つけてくれて東京の事務所に紹介してくれなかったらBOØWYは当然なかったし、今の俺がここにこうしていなかったと思うくらい恩人なんだよ。
何年も前から癌と闘っていたんだけど、今年の1月に力尽きちゃって。
俺の駄目出しをしてくれる人はあまりいないんだけど、ライブを見に来てくれる度に『お前あれが駄目だよ、これが駄目だよ』って、いつも言ってくれた。この間の最後のツアーの時も来てくれて、楽屋で、お前MCが駄目だよって。俺にシビアなことを言ってくれる愛を持った人で、頼りになる優しい人。今日はその加藤さんに恥ずかしくないステージをやろうと思っています」
KYOSUKE HIMURO LAST GIGS 2016年4月29日 ナゴヤドーム MCより)

氷室京介は「孤高のロックシンガー」と評されることが多い。それは、自らの音楽に妥協を許さない完璧主義者であることも理由の一つだと思っている。
「毎回、ライブ終了後のその日の夜、録画した自身のステージを確認して、精神的に落ち込む、ということをずっと繰り返してきた」そう語るインタビュー映像を見たことがあるが、彼のプロフェッショナルな一面を象徴していると思った。
そういう氷室京介に対して駄目出しをしてくれる人は、極限られていたのだと思うし、心からの信頼関係と尊重しあえる姿があったのだと思う。わたしは加藤さんを存じ上げていないけれど、氷室京介をこのステージに連れてきてくれた方のお一人なのだと、心から感謝した。

KYOSUKE HIMURO LAST GIGS 2016年5月22日 東京ドームDay2 MC

「俺がステージを離れるということを、みんなにきちっと説明しなければいけないなと思っている。ここに集まってくれているみんなは、俺よりも若いと思うんだ。俺はこういう形でステージを離れるけれど、俺の悪いところをみんなは真似しないように。世の中、何でもかんでもマルチタスク、色んなことを一つの機械でできるものがもてはやされている時代だけれど、人間は一つのことをめちゃくちゃ必死に、一生懸命できればいいかなと。辞めていくっていう人間がいうセリフじゃないけど、俺はそう思うから。
俺はこの35年間、必死に、できなくても必死にやってきたんだけど、ここのところ自分のコンディションが日によって違うんだよ。
辞書で(PRIDE プライド)って引くと自尊心という意味と、矜持という意味がでてくる。
俺がここで身を引くのは、自尊心でみんなに情けないところを見られるのが恥ずかしいからということではない、ということだけは分かってもらえたらと思う。
自分が情けない姿を見られるのが嫌だから身を引くんじゃなくて、これは俺の35年間プロとしてやってきた矜持なんだ。
比較的不器用だけど、しらけないで今まで35年間やってきて、俺の気持ち、生き方、やってきた音楽は、みんなに伝わっていると思うんだ。だからこうして、みんな集まってくれて応援してくれているんだと思う。
12歳の頃、俺は結構変わった奴だったんで周りから疎外されているといったら被害者意識が強すぎるけれど、みんなとうまく融合できないタイプだった。俗に言うミスフィットだった。大人になってまともな人間になれるのかめちゃくちゃ不安だった。もっと大げさに言うと、大人になった時に誰かしら、一人でも二人でも本当に俺のことを愛してくれる人が出てくるのか、すごく不安に思っていた子供の頃があった。こうして集まってくれているみんな、全国のみんなの前でパフォーマンスさせてもらって、一つたどり着きたかった場所に俺はたどり着いたのかなというのが、今の俺の気持ちです。本当に・・・本当に感謝しています」
(KYOSUKE HIMURO LAST GIGS 2016年5月22日 東京ドームDay2 MCより)

10代の頃からずっと大好きで、大切で追いかけ続けていたミュージシャン、氷室京介。物心ついた頃から、いつも私のそばに氷室京介の音楽はあった。

生き方に悩み、迷ったあの日。
どうしようもない程の悲しみに打ちひしがれ、出口なんか見えなかったあの日。
誰もわたしのことなんて分かってくれない、でも分かって欲しかったあの日。
誰かを想い、人を愛する喜びを知ったあの日。

氷室京介の音楽がわたしの心にこんなにも響くのは、言葉にならない想いも一緒に受け取っていたからなんだ…そう思った。
「たどり着きたい場所に、たどり着いた」という言葉を聞いた時、(ついに、その言葉を聞く時がきた。いよいよステージを降りる時なんだ)と、心は痛いけれど受け入れている自分がいた。

KYOSUKE HIMURO LAST GIGS 終章

リベンジライブであった「LAST GIGS」は(受け取った)感覚とともに、(間に合った)という感覚が、わたしにはあった。
わたしにとって「LAST GIGS」は、1987年12月24日、渋谷公会堂でBOØWY解散宣言がされた後、ファンのために行われたBOØWY の解散ライブでしかなかった。
わたしはそのライブに行くことができなかったし、BOØWY の存在を知ったのは解散後だったという悔しさが強くあったからである。
だけど、今度は間に合った。
氷室京介と同じ時代を生きられたことを、心から感謝している。

読んでくださって、本当にありがとうございました。
次回は、氷室京介の曲について書かせていただきたいと思います。
スポンサーリンク