今回は姫路城にゆかりのある武将【黒田官兵衛】についてご紹介します。
2014年のNHK大河ドラマにもなったことで有名になりましたね。
私も姫路ゆかりの人物ということで毎週欠かさず見ていました。
軍師として多彩な活躍をした黒田官兵衛の魅力をたっぷりお伝えします!

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黒田官兵衛の生い立ち

官兵衛は1546年(天文15年)11月29日、黒田満隆(後の黒田職隆)の長男として姫路で産まれました

幼い頃の名は【小寺万吉】
祖父の重隆は目薬屋として財を成し、姫路の大名である【小寺政職】に仕え、政職から才能を高く評価され姫路城代を任命されました。
幼い頃はとても腕白だった万吉ですが、母親の影響で文学好きの青年でもありました。
ですが14歳の時に最愛の母を亡くしてからは部屋に引きこもりがちになり、人と会うことを避けていたそうです。

17歳で初陣を飾る

官兵衛が17歳の時、初陣の機会がやってきます。
父、職隆とともに出陣した官兵衛は領地に攻めてきた土豪を征伐して見事に初陣を飾りました。
※土豪とは
その土地の豪族。勢力のある者

若くして姫路城代となる

1567年(永禄10年) 父、職隆が隠居することになり、家督と家老職を引き継いだ官兵衛。
そして小寺政職の姪である光(てる)と結婚し、若干22歳にして姫路城代となりました
この頃、名前を小寺万吉から官兵衛孝高に改名。

豊臣秀吉との出会い

家老となった官兵衛は近隣大名との幾多の戦を勝ち抜いていきましたが、小寺家はじめ播磨の大名たちは天下獲りを望む織田信長、毛利元就どちらにつくかの決断を迫られていました。
「毛利についた方がよい」という意見がありましたが、官兵衛は勢いがあり将来性のある信長につく方がよいと周りの大名たちを説得します。
最終的に小寺家は織田家につくことになり、官兵衛は織田信長と謁見(えっけん)を希望します。
そこで信長の側近で当時長浜城主であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に依頼し謁見が実現しました。
これが秀吉との出会いでした。
信長に播磨国の様子とこれからの見通しを質問された際「織田軍がいかに早く出陣するかが迷っている豪族たちを味方にできる鍵となる」と答えました。
これを聞いた信長は官兵衛の軍師としての才能を感じ、秀吉と相談するよう命じたことがきっかけで官兵衛は秀吉につき、ここから軍師として才能を発揮していくこととなるのです。

有岡城幽閉で絶体絶命の官兵衛

中国方面の軍師となった官兵衛ですが、播磨国の豪族は未だ織田家への帰属に反対する者もいてその説得に苦労していました。
そこで官兵衛は自身の長男である松寿丸(後の黒田長政)を織田家へ人質に差し出すことで従順の意を示すことを決断しました。

ところがある時、信長の重臣であった有岡城主の荒木村重が謀反を企てたのです。
この事態を収めるため使者となり単身有岡城へ出向いた官兵衛でしたが、なんと地下に監禁されてしまうという最悪の展開になってしまったのです!

官兵衛が幽閉されていた牢

なかなか戻ってこない官兵衛に信長陣営は「裏切った」と怒り、人質である松寿丸を殺せと秀吉に命じます。
当然秀吉はすぐに決断できず困惑してしまいます。

幽閉された官兵衛は狭い狭い牢の中で、窓の鉄格子の隙間から見える藤の花を心の支えにし、秀吉軍が有岡城を攻め落とす日をひたすら願い待ち続けていました。

この絶体絶命のピンチを救った人物が、元々秀吉の軍師として活躍していた竹中半兵衛。
半兵衛はその頃持病の結核が悪化し、床に伏せる日が続いていましたが、官兵衛を救うため
「松寿丸は私が殺しましょう」と秀吉の代わりに自らが松寿丸の元へ向かうのです。
本当に松寿丸は殺されてしまうのでしょうか・・・。

約1年もの間、幽閉されていた官兵衛ですが家臣たちによって無事に助け出されましたが、体は痩せ細り、窮屈な牢での生活で足が曲がってしまい上手く歩けなくなってしまうという酷い状況でした。

官兵衛だけでなく、松寿丸も生きていました!
半兵衛は松寿丸の命は奪わず、家臣に命じて匿っていたのです。
官兵衛がそのことを知ったとき、半兵衛はもう亡くなってしまっていましたが、二人の友情はとても素晴らしいものでした。

軍師としての才能を見事に発揮した「水攻め」

杖をつきながら歩く生活になってしまった官兵衛ですが、有岡城の一件で織田家に対して嘘偽りなく尽くしているということが認められ、秀吉直属の武将となったのです。
そして軍師として中国地方攻略に力を発揮し奮戦する日々が続いていました。

この中国攻めで官兵衛の軍師としての才能が発揮されたのが「水攻め」です。
備中国の高松城に軍を進めていた秀吉たちはこの城をどうやって攻めるか悩んでいました。
そこで官兵衛が考えたのが近くの川を堰き止めて高松城を水没させるというもの。
これを実行に移すため地元の人たちにも協力を願い堤防を築いたのです。

そしてこの戦略が見事に成功し、高松城は水に浮かぶ孤島となってしまい、城内は物資の補給もできず兵糧米も少なくなり、援軍も来ないことから兵士の士気が下がり高松城主の清水宗治は秀吉軍との和平に踏み切ったとされています。

高松城攻略成功が目の前まで来ていた天正10年6月3日、織田信長が本能寺の変にて死去という知らせが秀吉の元へ入ります。
秀吉は仕えていた信長の死に動揺し、泣き崩れました。

素早い戦略で成功した「中国大返し」

官兵衛は動揺する秀吉に「天下を獲る機会が訪れました」と告げ、そこからは素早い戦略を立てます。
それは信長を殺した明智光秀を討つために軍を置く高松城から山城国山崎まで全軍を取って返すというもの。
その際、織田家の配下にいる武将たちには「信長は生きている」という情報を流し、光秀につかないようにするという根回しも忘れませんでした。

秀吉が居城の姫路城に戻るまでに先駆けを走らせ、秀吉の帰路に灯りや炊き出し、渡し船などを準備し滞りなく戻れるように徹底しました。
高松を出発した秀吉軍は6月7日に姫路城へ到着し、ここで全軍に休養をとらせます。
6月9日に姫路城を出発し6月11日に尼崎へ到着
ここで京都に近い国の武将たちに協力を呼びかけ6月13日には山崎で光秀軍と激突します
光秀は坂本城へ逃げる際に土民に襲われ亡くなってしまいますが、高松城から山崎での激突まで10日ほどでの秀吉軍の大移動は「中国大返し」と呼ばれるようになりました。

官兵衛を遠ざける秀吉

その後も官兵衛は秀吉を助け見事天下統一を実現させますが、なんと秀吉はこれを機に官兵衛を遠ざけるのです。
それは何故か・・・
官兵衛の才能に恐れをなしたからです。
いずれ自分自身を官兵衛に脅かされる・・・と感じたのですね。

秀吉の思惑を感じ取った官兵衛は「もう自分の出る幕ではない」と44歳という若さで息子の長政に家督を譲り、「如水軒」と改名し隠居生活を送ります。
ですが、その後も秀吉を陰で支える存在として仕え続けていました。

関ヶ原の戦いのあと7年の歳月をかけ福岡城を築城した官兵衛と長政。
また、戦火に焼かれ荒れ果てていた太宰府天満宮を再建しました。
福岡での官兵衛は隠居所である三の丸の御高屋敷から外へ出て庶民との交流もし、子どもたちを屋敷に招いたこともあったそうです。

そして、慶長9年3月20日病気のため59歳で生涯を閉じました

秀吉の天下統一になくてはならない存在だった官兵衛。
波瀾万丈の人生でしたが、どんな時も冷静に先を読む戦略で軍師として様々な奇策を成功させてきました。
姫路出身の官兵衛は地元民の誇りでもあります。

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